理科との日常との関連づけについて

理科教師をやってるとよく見かけるのが生活との関連づけ。

 

以前デューイ派学派の研究の本において

「学校で得た知識は日常で役に立たなければならず、

日常の体験は学校で活かされなければ、学校はただの社会制度となる」

みたいなことが書かれてたわけですが…

 

これを見た時の大学一年生の頃の僕の感想は、

 

「なるほど!確かにそうだ!!さすがデューイさん!!」

 

みたいに思ったのを記憶してます。

 

でもよくよく考えると、これって

日常生活で使わないものは勉強しなくていい!

的な概念に陥りますよね。

 

ここでおそらく反論としては

「それは学校で得た知識を使おうとしないだけ、もしくは使えることにすら気がついていない。」

とか…まぁ色々あるでしょうが。

 

そもそも学びって、社会に役に立つから使うのでしょうか?

 

古文漢文を社会に出た後使わない人はいくらでもあると思いますし、

物理の知識を自分の社会に役に立つ!と思ってやってる人って果たして何人いるんでしょうか?

 

それこそ、そういった理論を展開するのであれば、

もっと使えそうな学問なんて沢山あるはずです。

 

ここで僕の悪い癖なのですが、もっと広く問いを立てると、やはり

 

「なぜ学ぶのか?」

 

ってところに行き着くんじゃないかなと思います。

 

これは自分なりの、現時点での答えはありますが、

それを書き始めると文字数が途端に長くなるのでこの辺で。

 

ぜひ、この記事に意見をいただけると幸いです。

 

 

 

コメント回答3

tyudenさんからの質問ですね。

一つずつ回答していきます。

 

前回の硫酸銅の話を教師はどのようにまとめていったか?という話ですが、なかなか難しいですね。

 

厳密にいうと対話や実験を通して徐々に硫酸銅がどのような状態なのかを正しく解釈していき、その中でまた新たな問いが生まれ、流れるように授業が展開していったという形でしょうか。

 

まとめ!という形ではまとめていません。

 

しかし凄いことに、その流れにおいて、小学生が分子という言葉を使ってはいませんが分子の概念まで捉え始めていました。

(本人は最後に分子の概念まではわからせることができなかったと述べていますが、わたし自身はそれなりに解釈をしてたのではないかと思っています。)

 

わたしの論文でこの川嶋環の溶解を取り上げさせていただきましたが、とても素晴らしい授業だと思うので、是非買って読んでいただきたいものです。

 

この溶解の授業に対して様々な研究者が考察をしております。

 

是非そちらも見ていただくとさらにこの授業が深まっていくと思います。

 

ちょっと話がされましたね。

まぁ、実際確かにこの硫酸銅の話は…というより溶解の話は川嶋さんによってまとめられました。というより、打ち切られました。

 

それは教師が子どもの教材解釈に追いつかなかったからだと川嶋さん本人が述べています。

(いや厳密には、多少まとめはされました。しかし、どのようにまとめられていたかは正直そこだけ抜き取っても訳がわからないと思います。)

 

子どもの探究するという、無限のエネルギーに教師が負けたからこの授業は終わったのです。

 

ここがまた川嶋さんのすごいところだなぁと思います。

 

さて前回の記事から買って読めという元も子もないことばかり言っていますが本当に申し訳ありません。ただ、このブログで書ききれる自信も、僕の解釈を伝え切る自信もないので逃げさせていただきます笑笑

 

二つ目の質問です。

 

どのくらいの専門性が必要かという質問です。

 

専門性を、大きく二つに分けさせていただくと

 

教師という職業への専門性

 

教科に対する専門性

 

に分けられると思います。

 

教科に対する専門性に関していうと、

宮城教育大学の学長である林竹二氏は「開国」「人間について」という授業をたくさんの学校で行っていました。

 

林竹二はわたしにはこの授業しかできないというほどに深い教材解釈を求めていた訳です

 

斎藤喜博も林竹二も教科に対する専門性はどこまでも深くあるべきであり、常に教師は学び続けなければならないという考えを持っています。

 

そうでなければ子どもの問いの本質を見出したりすることはできません。

 

子どもの問いに価値を与えることができるのは、それほどまでに教師の教材解釈と高い専門性によってなされるものなのです。

 

どこまで必要なのかと言う問いには、学び続けられる限りどこまでも必要であるというのが正しいのでしょうか。

 

さらには教師の専門性については、やはり教師は教師のプロであるべきだと思います。

 

他の職業にとって変わらない専門家だと思います。

 

教育とはすべての人がその主体に立ったことがある領域であり、一見すると知識があれば誰にでもできそうなものですが、それではダメなのです。

 

授業というものがどういうものなのか、それを追究する過程に教師という専門性があるとわたしは思います。

 

おそらくその最低ラインが大学の授業のようになっていると思うのですが、やはり全然足りないと思います。

 

絶えず研究と修練し、学び続ける人こそ教師であるために、そこにどこまでという基準はなく、学び続けることこそ教師に求められる事ではないのかなと思います。

 

ちなみに大学によって授業の質は確かに違うと思いますが、わたしの教育についての学びは自分の大学で2割程度で、残りの8割は、論文だったり本だったり、他大学の研究会などに参加したりしてました。

 

学ぶ意欲があればどこでも学べるのが教育のいいところだと思います。

 

長くなりましたが以上です。

 

解答になってたかな?不安ですね。

コメント回答2

教師と先生の違いはなんですか?

 

と言う質問をいただきました。

 

おそらくネットによる情報などの、いわゆる具体的な定義を求めているようではないので、私の解釈で話させていただきます。

 

これはあくまで私の解釈なので、これを一つ自分の解釈を深める道具として使っていただきたいです。

 

あと、普段自分は学校教諭のことを教師と呼んでいますが、この記事に限り文章の中で教師と先生を使い分ける必要があるため、基本的には教員という言い方をしたいと思います。

 

先生とは何かお教えてくれたりする人全般に用いられます。

 

しかし教師は学校にしか使えません。

 

さらに教師は一人称でも二人称でも使えませんが先生はその逆です。

 

ちなみに教員になってから、書類を書く時は全て教諭と言う書き方をしますがこれはまぁおいておきましょう。

 

基本的に授業論などの本では先生という書き方よりは教師という書き方を多くみます。

 

ざっと僕の家にある本でもほとんどは教師という表記をしています。

 

しかし、教師という言い方を嫌う教員の人も多くいます。

 

教師とは師という文字が使われている!だから偉そうだ!みたいなイメージです。

 

でも私自身は教員と子どもは師弟関係でいいと思います。

 

教員と子どもは全く同じ立場ではないと思っているからです。

 

前も言いましたが、教員は子どもよりも深い教材解釈を持っており、子どもに対して、何かを教えたいと願う人です。

 

しかし、学び方についてはこれまでと異なり「教える教わる」の関係ではなく「共に学ぶ」関係性が求められています。

 

おそらくこの共に学ぶことや、教員の立場の変容などが教師という言い方になんらかの違和感を感じさせているのではないかなぁと思います。

 

繰り返しになりますが、わたしはそれでも、教師という言い方が正しいと思っています。

 

学級を組織し、授業を組織し、子どもの発言など吟味したり、時には子どもの意見も切り捨てなければならない時があります。

(切り捨てるという言葉は語弊がありそうですが、詳しくは斎藤喜博の授業入門、授業、授業の展開などを見ていただけると幸いです)

 

学びというものはこういうものだというのを教師自身が体現していくことに授業の意味は存在しているのだと思います。

 

そしてそういう姿を見て子どもは真の学びの姿勢を構成していくものだとも思います。

 

そういった意味ではやはり教員は師であるという言い方が良いのではないかなと感じます。

 

他にも様々な理由はありますが、文字数的にここまでで…

 

ちなみにわたしは教員になってから一人称で先生という言葉を使ったことはありません。

 

いや、冗談程度に使ったことはありますが…

 

それは佐藤学の「授業研究入門」という本に納得してのことなのですが、是非そちらを読んでいただけると幸いです。

 

アマゾンで2420円です。

 

よく批判されるIRE構造、すなわち開始、応答、評価などの教室言語などにも追求していたり、共に学ぶということがどういうことなのか、というのまで広く記されています。

 

いつかこの本の紹介は書きたいと思うので、もし買えない場合はその日まで待っててください.

 

では!この辺で

 

 

 

 

 

授業における教師の役割

前の記事で知識伝達型の授業に対する否定を行いました。

 

では、学び合う授業はどう展開していくべきなのでしょう。そして教師はその中でどのような役割を担っているのでしょうか。

 

これについて考えていきたいと思います。

 

これまでの知識伝達型授業においては、教師はもはや必要ありません。

説明がうまい先生の動画を配信していれば良いと思います。

 

しかし学び合う授業はそうであってはいけません。

 

重要なことは「主体的・対話的で深い学び」をすべての子どもに保障していくことだとおもいます。ね

 

学校での授業が子どもにとって受動的なものであっては主体的であるとはいえません。

 

教材との対話はできていても、子ども同士、教師同士が対話をしていかなければ対話的とは言えませんし、深い学びとは言えません。

 

学び合いにおいては、子どもたちが自分の意思で学んでいるという意識、この授業の主役であるという認識を持つことが主体的な学びであり、教材や友達、教師、そして自分自身と解釈をぶつけ合うことが対話的な学びであり、そうしていく上で、自分の対象に対する解釈が無限に広がっていくことが深い学びであると思います。

 

教師はそのような学びを保障するような授業づくりをしなければなりません。

 

そして教師は子どもの学びを支えていかなければなりません。

 

さて、もう少し具体的に、どのようにして子ども学びを支えていかなければならないのかについて述べたいと思います。

 

まず第一に「教える-教えられる」の構造から壊しましょう。

 

この固定概念がある限り学び合いは不可能です。

 

なぜなら教師が教えると言うのは教師が真理を持っていると言う大前提で成り立つからです。

 

教師もまた自分何の解釈を持った他者であると言う認識が重要です。

 

いくらオープンエンドな問いを作ろうと心がけたところで、教師の解釈が正しいのであればそれは結果的に知識伝達という形に陥ります。

 

重要なことは子どもに教師としての解釈をぶつけることです。

 

それに対して子どもは全力で自分の解釈を教師や仲間にぶつけていくことです。

 

斎藤喜博は授業を激しい営みと捉えていますが、まさにその通りだと思います。

 

互いに他人の解釈をぶつけ合ってこそ、学びは深くなっていくものです。

 

しかし子どもはまだ自分の考えをうまく説明できなかったり、そもそも言語化させるようなボキャブラリーを有していない場合があります。

 

そのときに教師はその子どもの解釈なり問いなりを外言化させる手助けをしなり、子どもたちが同じ認識だと思っている些細な違いを見抜いて、発信したりする必要があります。

 

『想像する授業』という川嶋環氏の小学高の理科における溶解の授業において硫酸銅水溶液を見た子どもの発言に

 

「それは硫酸銅の色がついた水だ!」

「それは硫酸銅とあと水だ!」

 

という二つの考えが提示されました。

川嶋氏はこの似ているようで違う二人の意見を見抜きました。

 

これは教師が高い専門性を持っているからこそ、子ども同士の解釈に対して気づくことができたんだと思います。

 

学び合いにおいては教師は子どもと同じように学んでいく存在でありながら、高い専門性を持った存在であるからそ、子どもの学びを支えることができるのです。

 

まとめると、

教師は対話を意識して授業づくりをし、高い専門性を持って子どもの学びを支えていかなければなりません。

学校の授業で一番重要なことは対話する他者が存在するであるということを意識するべきであると考えています。

 

今回もだいぶだいぶ端折って書いたため重要な部分が抜け落ちてしまっていたり、書きたいけど書けなかった部分、内容が薄い部分が多くありますが、今後細かいところについてどんどん書いていきたいな!と思っています!

 

ありがとうございました!

 

 

コメント返答1

お疲れ様です。

 

前回の記事でコメントをいただきましたので返していきたいなと思います。

 

まず一つが、学び合う授業と知識伝達形式の授業は使い分けをするのか、それとも100%学び合う授業なのか?

 

という質問から返します

 

まずは授業を行うにあたって、客観主義的知識観から、社会構成主義的知識観へのパラダイムシフトが必要である。というのが僕の一番伝えたい主張でした。

 

そのため、「そもそも知識とは伝達したりされたりするものとして扱われない。」わけです。

 

しかし、ここには学び合う授業とは何なのか、対話とはどういう定義で扱っているのか、というものを述べない限り、すべてがグループワークで構成されるような授業を想像されるのは当たり前であります。

 

社会構成主義的な知識観における授業とはどういうものなのか、またその具体例については少しずつ書いていきたいと思います。

 

またもう一つの質問に、この記事で述べている学校とは何を対象にしているのかという質問に対しては、小~大学など広い意味での学校を対象にしております。

 

しかし生徒と学生は意味合いが異なるため、根本的な知識観に関しては、すべての種類の学校の共通認識としてかまいませんが、私が今後述べていく授業論等は基本的に小学校~高校までを対象としているとお考え下さい。

 

質問ありがとうございました。

 

不明な点があればまたいつでもお願いいたします。

 

 

 

 

知識とは何なのか

今現在、主体的・対話的で深い学びが求められていまが、実際多くの学校学校の先生は旧来の知識伝達型の授業が行われています。

 

もしくは形だけグループワークをとっている授業ですね。

 

知識伝達型授業とは何がいけないんでしょうか?

 

対話なんかしてたって時間がかかるし、学力も上がらない!受験に対応なんかできない!

 

とでも言われてしまいそうですね。

 

よくこういう人に対する返答としては、対話する力を身に付けないと今の世の中やっていけないよ!とか、自ら学ぶ子どもを作らないといけないんだ!教え込んではそれができない!

 

という風に、受験というワードを避けたりします。なんなら知識伝達方授業をやっても、勉強好きな人は学び続けてくれます。

 

まぁ勉強嫌いの人は、駄々をこねながらいやいややってくれるか、やらずに落ちこぼれていくかどうかですね。

 

学力格差反対!とかいう人は基本的に知識伝達型授業という形式を変えずに、勉強ができない人の個別対応を充実させたり、受け狙いの授業をやって、笑いをとって少しでも授業に取り組んでくれるように頑張ってみたり…少し勉強した人だと、親の経済格差の子どもの学力格差に相関があることを知って、子どもの学ぶ環境づくりに取り組ませるべき!

 

なんて感じの答えが出てきます。

 

頭いい人ほど落ちこぼれの気持ちがわからないと思いますが、成績が底辺中の底辺の僕の経験的には親に本は好きなだけ買っていいって言われてたし、おそらく先生の授業も面白かったかもしれないけど、勉強のやる気なんてこれっぽっちもない。都市部に住んでいて様々なものに触れる機会はあったけれど、学びたいと言う意識はなかったかなぁ

 

という感じですね。

 

あまりにも勉強できなさ過ぎて、親には「あんたには何も望まない」って言われてましたし…

 

小学校のテストで50点超えようものならガッツポーズですよ。基本的に20点くらいですからね。

 

まぁそんな話は置いといて、そもそもですけど、

 

知識って伝達できるんですか?

 

いやいや、できるでしょ、って思うかもしれないですけど。

 

本当ですか?

 

僕はできないと思います。

 

もっと根源的な問いを立ててみましょう。

 

知識って何ですか?

 

これを読んでる方は知識の意味を答えられますか?

 

ここからは少し難しい内容になってくるかもしれません。

 

知識観っていうのは大きく二つあって、そのうち一つが

 

客観主義的知識観です。

 

これはつまり、知識は真理として存在しているものである。みたいなことですね。

 

教師は知識をたくさん持っているので。それを子どもにコピーアンドペーストしていくという過程が知識伝達という過程なんですね。

 

もう一つの知識観は

 

社会構成主義的知識観です。

 

知識は真理として存在するものではない。というものですね。対象に対する知識というのは、他者との関わり合いや経験などを通して構成されていくものであって、一人一人対象に対する解釈は違うわけです。

 

まぁすごくよくわからないと思うので、二つの知識観を試しにリンゴというものを軸に大げさに考えていきたいと思います。

 

前者では教師が、「リンゴっていうものは、果物です。甘酸っぱいもので、皮は赤く、中は黄色みがかった白です。」

と伝えればいいということになります。

リンゴという知識は存在しているわけですからこれでオーケーです。これが正解です。ほかに正解はありません。

 

後者では、「リンゴとはどういうものなのでしょう…私の今までの経験では赤くて、甘酸っぱくて、皮が赤くて、中は黄色みがかった白です」

というような感じでしょうか。

つまりは、教師のリンゴに対する解釈を述べているわけですね。

これは正解ではありません。子どもの中には甘くない酸っぱいリンゴしか食べたことのない子や、青リンゴしか見たことのない子どもがいるかもしれません。その子たちにとっては、リンゴはすっぱいものであり、また、リンゴは青いものなのです。

そこで教師の解釈を子どもの中で自分の今までのリンゴの解釈とすり合わせて、新たなリンゴという解釈が生まれていくものです。

リンゴというものの答えに正解明確な正解はありません。りんごというものがなんであるかは、他者のリンゴに対する解釈や、自分のリンゴの解釈をすり合わせにおいて、構築されていくものであるわけです。

 

ここからは私の考えを述べさせていただきます。

勉強が嫌いというのは、授業が、教師の言う正解にいかにたどり着くかという競争的な空間になってしまっているからだと思います。

 

子どもがどんな経験をし、どんなことを考えているかは排除され、教師の言う真理をただひたすら覚えるという過程が重要になっていきます。

 

知識伝達型授業における対話的活動では、結局教師が持っている正解が尊ばれ、その他は排除されます。結局は効率的な伝達手段における対話的な活動と捉えているのでしょう。

 

子どもを否定し、自分の真理の押し付けばかりが先行する話し合いなんて子どもの頭には「教師はどんな答え求めているんだろう」の模索でしかありません。

 

子どもは教師にいかに自分が、伝達されているかをアピールすることになります。

 

このような授業で子ども全員に学びを保障することなんて不可能です。

 

子どもは、教師や仲間、教材と対話をしながら、自分の解釈を深めてかなければなりません。

 

もちろん頭の回転が速い子や遅い子もいるでしょう。

 

しかしそういった中で、どんな子どもにも解釈があり、それはすべて授業において尊ばれるものです。

 

他者がいなければ授業は成立しません。

 

子どもの知識を構成していくのは、教師ではなく子ども自身です。だからみんな自分が主役だと思えるのです。

 

教師から子どもへ伝達する授業ではなく、教師と子どもがともに学び合い、ともに深め合う授業へと変わっていかなければならないと思っています。

 

教師が主体ではなく子どもが主体というのはよく言われますが、教師も子どもの解釈から学びたいという意識がある限り、教室全体が主体意識を持っているんだと思います。

 

むしろ知識が伝達できていると思っている教師がいるのなら、それは傲慢であって、子どもの多様性の否定でもあります。

 

これが僕の知識の解釈です。もし違った知識についての解釈があるのであれば話し合いましょう。それはきっと、知識という言葉の意味を押し付けるのではなく、深め合う話し合いになることでしょう。

 

これを見ている人が今までの知識観とすり合わせて知識に対する解釈が少しでも深まっているのであれば、いいなぁと思います。

 

知識とは何か?答えられますか?という最初の問いにも多様な答えがあるべきであって、皆辞書の言葉を丸暗記していたら気持ち悪いし、その辞書の言葉に対する解釈だって多様ですよね。

 

長くなりすぎました。

次回は、今回の続き?で

共に学び合う授業で教師の役割とは何かについて書いていきたいなと思います。

 

長くなって失礼しました…

これでもざっくり、ふわっと書き連ねたので、まだまだ突っ込みどころがあると思いますので、それに対する僕なりのアンサー的な記事もどんどん書いていきたいです。

 

参考文献のっけたほうがいいですかね…?

本の紹介なんかも今後やっていきたいなと思います。

 

ではまた

初めまして。

今まで何度かブログを行っていきましたが、このブログのメインテーマは教育についてです。

 

基本的に教育に関することしか記事にしません。

 

批判等は大いに結構で皆さんからのコメントを待っております。