授業における教師の役割

前の記事で知識伝達型の授業に対する否定を行いました。

 

では、学び合う授業はどう展開していくべきなのでしょう。そして教師はその中でどのような役割を担っているのでしょうか。

 

これについて考えていきたいと思います。

 

これまでの知識伝達型授業においては、教師はもはや必要ありません。

説明がうまい先生の動画を配信していれば良いと思います。

 

しかし学び合う授業はそうであってはいけません。

 

重要なことは「主体的・対話的で深い学び」をすべての子どもに保障していくことだとおもいます。ね

 

学校での授業が子どもにとって受動的なものであっては主体的であるとはいえません。

 

教材との対話はできていても、子ども同士、教師同士が対話をしていかなければ対話的とは言えませんし、深い学びとは言えません。

 

学び合いにおいては、子どもたちが自分の意思で学んでいるという意識、この授業の主役であるという認識を持つことが主体的な学びであり、教材や友達、教師、そして自分自身と解釈をぶつけ合うことが対話的な学びであり、そうしていく上で、自分の対象に対する解釈が無限に広がっていくことが深い学びであると思います。

 

教師はそのような学びを保障するような授業づくりをしなければなりません。

 

そして教師は子どもの学びを支えていかなければなりません。

 

さて、もう少し具体的に、どのようにして子ども学びを支えていかなければならないのかについて述べたいと思います。

 

まず第一に「教える-教えられる」の構造から壊しましょう。

 

この固定概念がある限り学び合いは不可能です。

 

なぜなら教師が教えると言うのは教師が真理を持っていると言う大前提で成り立つからです。

 

教師もまた自分何の解釈を持った他者であると言う認識が重要です。

 

いくらオープンエンドな問いを作ろうと心がけたところで、教師の解釈が正しいのであればそれは結果的に知識伝達という形に陥ります。

 

重要なことは子どもに教師としての解釈をぶつけることです。

 

それに対して子どもは全力で自分の解釈を教師や仲間にぶつけていくことです。

 

斎藤喜博は授業を激しい営みと捉えていますが、まさにその通りだと思います。

 

互いに他人の解釈をぶつけ合ってこそ、学びは深くなっていくものです。

 

しかし子どもはまだ自分の考えをうまく説明できなかったり、そもそも言語化させるようなボキャブラリーを有していない場合があります。

 

そのときに教師はその子どもの解釈なり問いなりを外言化させる手助けをしなり、子どもたちが同じ認識だと思っている些細な違いを見抜いて、発信したりする必要があります。

 

『想像する授業』という川嶋環氏の小学高の理科における溶解の授業において硫酸銅水溶液を見た子どもの発言に

 

「それは硫酸銅の色がついた水だ!」

「それは硫酸銅とあと水だ!」

 

という二つの考えが提示されました。

川嶋氏はこの似ているようで違う二人の意見を見抜きました。

 

これは教師が高い専門性を持っているからこそ、子ども同士の解釈に対して気づくことができたんだと思います。

 

学び合いにおいては教師は子どもと同じように学んでいく存在でありながら、高い専門性を持った存在であるからそ、子どもの学びを支えることができるのです。

 

まとめると、

教師は対話を意識して授業づくりをし、高い専門性を持って子どもの学びを支えていかなければなりません。

学校の授業で一番重要なことは対話する他者が存在するであるということを意識するべきであると考えています。

 

今回もだいぶだいぶ端折って書いたため重要な部分が抜け落ちてしまっていたり、書きたいけど書けなかった部分、内容が薄い部分が多くありますが、今後細かいところについてどんどん書いていきたいな!と思っています!

 

ありがとうございました!