コメント回答3

tyudenさんからの質問ですね。

一つずつ回答していきます。

 

前回の硫酸銅の話を教師はどのようにまとめていったか?という話ですが、なかなか難しいですね。

 

厳密にいうと対話や実験を通して徐々に硫酸銅がどのような状態なのかを正しく解釈していき、その中でまた新たな問いが生まれ、流れるように授業が展開していったという形でしょうか。

 

まとめ!という形ではまとめていません。

 

しかし凄いことに、その流れにおいて、小学生が分子という言葉を使ってはいませんが分子の概念まで捉え始めていました。

(本人は最後に分子の概念まではわからせることができなかったと述べていますが、わたし自身はそれなりに解釈をしてたのではないかと思っています。)

 

わたしの論文でこの川嶋環の溶解を取り上げさせていただきましたが、とても素晴らしい授業だと思うので、是非買って読んでいただきたいものです。

 

この溶解の授業に対して様々な研究者が考察をしております。

 

是非そちらも見ていただくとさらにこの授業が深まっていくと思います。

 

ちょっと話がされましたね。

まぁ、実際確かにこの硫酸銅の話は…というより溶解の話は川嶋さんによってまとめられました。というより、打ち切られました。

 

それは教師が子どもの教材解釈に追いつかなかったからだと川嶋さん本人が述べています。

(いや厳密には、多少まとめはされました。しかし、どのようにまとめられていたかは正直そこだけ抜き取っても訳がわからないと思います。)

 

子どもの探究するという、無限のエネルギーに教師が負けたからこの授業は終わったのです。

 

ここがまた川嶋さんのすごいところだなぁと思います。

 

さて前回の記事から買って読めという元も子もないことばかり言っていますが本当に申し訳ありません。ただ、このブログで書ききれる自信も、僕の解釈を伝え切る自信もないので逃げさせていただきます笑笑

 

二つ目の質問です。

 

どのくらいの専門性が必要かという質問です。

 

専門性を、大きく二つに分けさせていただくと

 

教師という職業への専門性

 

教科に対する専門性

 

に分けられると思います。

 

教科に対する専門性に関していうと、

宮城教育大学の学長である林竹二氏は「開国」「人間について」という授業をたくさんの学校で行っていました。

 

林竹二はわたしにはこの授業しかできないというほどに深い教材解釈を求めていた訳です

 

斎藤喜博も林竹二も教科に対する専門性はどこまでも深くあるべきであり、常に教師は学び続けなければならないという考えを持っています。

 

そうでなければ子どもの問いの本質を見出したりすることはできません。

 

子どもの問いに価値を与えることができるのは、それほどまでに教師の教材解釈と高い専門性によってなされるものなのです。

 

どこまで必要なのかと言う問いには、学び続けられる限りどこまでも必要であるというのが正しいのでしょうか。

 

さらには教師の専門性については、やはり教師は教師のプロであるべきだと思います。

 

他の職業にとって変わらない専門家だと思います。

 

教育とはすべての人がその主体に立ったことがある領域であり、一見すると知識があれば誰にでもできそうなものですが、それではダメなのです。

 

授業というものがどういうものなのか、それを追究する過程に教師という専門性があるとわたしは思います。

 

おそらくその最低ラインが大学の授業のようになっていると思うのですが、やはり全然足りないと思います。

 

絶えず研究と修練し、学び続ける人こそ教師であるために、そこにどこまでという基準はなく、学び続けることこそ教師に求められる事ではないのかなと思います。

 

ちなみに大学によって授業の質は確かに違うと思いますが、わたしの教育についての学びは自分の大学で2割程度で、残りの8割は、論文だったり本だったり、他大学の研究会などに参加したりしてました。

 

学ぶ意欲があればどこでも学べるのが教育のいいところだと思います。

 

長くなりましたが以上です。

 

解答になってたかな?不安ですね。