知識とは何なのか
今現在、主体的・対話的で深い学びが求められていまが、実際多くの学校学校の先生は旧来の知識伝達型の授業が行われています。
もしくは形だけグループワークをとっている授業ですね。
知識伝達型授業とは何がいけないんでしょうか?
対話なんかしてたって時間がかかるし、学力も上がらない!受験に対応なんかできない!
とでも言われてしまいそうですね。
よくこういう人に対する返答としては、対話する力を身に付けないと今の世の中やっていけないよ!とか、自ら学ぶ子どもを作らないといけないんだ!教え込んではそれができない!
という風に、受験というワードを避けたりします。なんなら知識伝達方授業をやっても、勉強好きな人は学び続けてくれます。
まぁ勉強嫌いの人は、駄々をこねながらいやいややってくれるか、やらずに落ちこぼれていくかどうかですね。
学力格差反対!とかいう人は基本的に知識伝達型授業という形式を変えずに、勉強ができない人の個別対応を充実させたり、受け狙いの授業をやって、笑いをとって少しでも授業に取り組んでくれるように頑張ってみたり…少し勉強した人だと、親の経済格差の子どもの学力格差に相関があることを知って、子どもの学ぶ環境づくりに取り組ませるべき!
なんて感じの答えが出てきます。
頭いい人ほど落ちこぼれの気持ちがわからないと思いますが、成績が底辺中の底辺の僕の経験的には親に本は好きなだけ買っていいって言われてたし、おそらく先生の授業も面白かったかもしれないけど、勉強のやる気なんてこれっぽっちもない。都市部に住んでいて様々なものに触れる機会はあったけれど、学びたいと言う意識はなかったかなぁ
という感じですね。
あまりにも勉強できなさ過ぎて、親には「あんたには何も望まない」って言われてましたし…
小学校のテストで50点超えようものならガッツポーズですよ。基本的に20点くらいですからね。
まぁそんな話は置いといて、そもそもですけど、
知識って伝達できるんですか?
いやいや、できるでしょ、って思うかもしれないですけど。
本当ですか?
僕はできないと思います。
もっと根源的な問いを立ててみましょう。
知識って何ですか?
これを読んでる方は知識の意味を答えられますか?
ここからは少し難しい内容になってくるかもしれません。
知識観っていうのは大きく二つあって、そのうち一つが
客観主義的知識観です。
これはつまり、知識は真理として存在しているものである。みたいなことですね。
教師は知識をたくさん持っているので。それを子どもにコピーアンドペーストしていくという過程が知識伝達という過程なんですね。
もう一つの知識観は
社会構成主義的知識観です。
知識は真理として存在するものではない。というものですね。対象に対する知識というのは、他者との関わり合いや経験などを通して構成されていくものであって、一人一人対象に対する解釈は違うわけです。
まぁすごくよくわからないと思うので、二つの知識観を試しにリンゴというものを軸に大げさに考えていきたいと思います。
前者では教師が、「リンゴっていうものは、果物です。甘酸っぱいもので、皮は赤く、中は黄色みがかった白です。」
と伝えればいいということになります。
リンゴという知識は存在しているわけですからこれでオーケーです。これが正解です。ほかに正解はありません。
後者では、「リンゴとはどういうものなのでしょう…私の今までの経験では赤くて、甘酸っぱくて、皮が赤くて、中は黄色みがかった白です」
というような感じでしょうか。
つまりは、教師のリンゴに対する解釈を述べているわけですね。
これは正解ではありません。子どもの中には甘くない酸っぱいリンゴしか食べたことのない子や、青リンゴしか見たことのない子どもがいるかもしれません。その子たちにとっては、リンゴはすっぱいものであり、また、リンゴは青いものなのです。
そこで教師の解釈を子どもの中で自分の今までのリンゴの解釈とすり合わせて、新たなリンゴという解釈が生まれていくものです。
リンゴというものの答えに正解明確な正解はありません。りんごというものがなんであるかは、他者のリンゴに対する解釈や、自分のリンゴの解釈をすり合わせにおいて、構築されていくものであるわけです。
ここからは私の考えを述べさせていただきます。
勉強が嫌いというのは、授業が、教師の言う正解にいかにたどり着くかという競争的な空間になってしまっているからだと思います。
子どもがどんな経験をし、どんなことを考えているかは排除され、教師の言う真理をただひたすら覚えるという過程が重要になっていきます。
知識伝達型授業における対話的活動では、結局教師が持っている正解が尊ばれ、その他は排除されます。結局は効率的な伝達手段における対話的な活動と捉えているのでしょう。
子どもを否定し、自分の真理の押し付けばかりが先行する話し合いなんて子どもの頭には「教師はどんな答え求めているんだろう」の模索でしかありません。
子どもは教師にいかに自分が、伝達されているかをアピールすることになります。
このような授業で子ども全員に学びを保障することなんて不可能です。
子どもは、教師や仲間、教材と対話をしながら、自分の解釈を深めてかなければなりません。
もちろん頭の回転が速い子や遅い子もいるでしょう。
しかしそういった中で、どんな子どもにも解釈があり、それはすべて授業において尊ばれるものです。
他者がいなければ授業は成立しません。
子どもの知識を構成していくのは、教師ではなく子ども自身です。だからみんな自分が主役だと思えるのです。
教師から子どもへ伝達する授業ではなく、教師と子どもがともに学び合い、ともに深め合う授業へと変わっていかなければならないと思っています。
教師が主体ではなく子どもが主体というのはよく言われますが、教師も子どもの解釈から学びたいという意識がある限り、教室全体が主体意識を持っているんだと思います。
むしろ知識が伝達できていると思っている教師がいるのなら、それは傲慢であって、子どもの多様性の否定でもあります。
これが僕の知識の解釈です。もし違った知識についての解釈があるのであれば話し合いましょう。それはきっと、知識という言葉の意味を押し付けるのではなく、深め合う話し合いになることでしょう。
これを見ている人が今までの知識観とすり合わせて知識に対する解釈が少しでも深まっているのであれば、いいなぁと思います。
知識とは何か?答えられますか?という最初の問いにも多様な答えがあるべきであって、皆辞書の言葉を丸暗記していたら気持ち悪いし、その辞書の言葉に対する解釈だって多様ですよね。
長くなりすぎました。
次回は、今回の続き?で
共に学び合う授業で教師の役割とは何かについて書いていきたいなと思います。
長くなって失礼しました…
これでもざっくり、ふわっと書き連ねたので、まだまだ突っ込みどころがあると思いますので、それに対する僕なりのアンサー的な記事もどんどん書いていきたいです。
参考文献のっけたほうがいいですかね…?
本の紹介なんかも今後やっていきたいなと思います。
ではまた